代価
お参りに行った日 19才の冬 神社へお参りに行った。 ・・・はじめてのお参り 「エホバ」以外の神に祈る事 でも、もう罪悪感による苦しみはなかった。 別にどうでもよかった。 私に「エホバ」はいなかったから「エホバ」以外の神もいなかったから。 御さい銭を投げた。 手が震えた。 入らなかった。 少しほっとした。 無意識のうちに入らないように入れたのかもしれない、・・・いや、元々コントロール悪いし・・・。 みんながしてるように手をパンパンと叩き合わせそして想ってみた。 「冬公演が成功しますように」 もうひとつ、想ってみた 「・・・彼氏が出来ますように」 誰に何を祈ってるのか分からなくなった。 私にとって神とは何だろう。何だったのだろう。 私は神を否定した。 だから、神も私から消えた。 でも、きっと一生、私にとっての神は「エホバ」しかいないのだろう。 生まれて初めておみくじを引いた。 大吉だった。 うれしかった。 長かったナニカが終わっていた。 お参り。べつに「真剣に神に祈る」というような類ではない。 それは、私が所属していたサークル(劇団)で、ひとつの公演をうつ度に行われるいわばイベントのようなもので、 「これから本格的に芝居の稽古はいるで~、気~ひきしめや~っ。」「景気づけにいっとこか~。」というような形だけのものだった。 "誰も怪我をすることなく無事に本番の日が迎えられますように、そして公演が成功しますように"という、 私達のあたりまえといえる願いをこめて。 私は、その頃既に「エホバの証人」の活動からは離れていたし、"クリスマスを意味もなくただ楽しんで、 正月には初詣に行く"という一般的な日本人のイベント好き生活に憧れていたし、そうしたいと思っていたし、 そんな気楽な気持ちで、サークルのみんなと、はしゃぎながら神社に向かった。 しかし単なるイベントといえど、私にとって唯一絶対の神であった「エホバ」以外の神を崇めるという行為は、 絶対に犯してはならない禁忌、心につっかえていたただひとつのことだった。 私はそれ以前から、友人の誕生日を祝うなどのま~カワイイことからはじめ、タバコを吸うなど、 組織から排斥対象となる禁止事項もいろいろやっていた。 だが、お参りにいくという行為は、“タバコを吸う”とか、“組織が「不道徳」とみなす行動をとる” などの同じく排斥対象となる禁止事項でも、そんな行為などとは全く次元の違うものだった。 そのような行為は、最初は罪悪感を感じたとしても、ひかかっているせいで心から楽しめなかったにしても、 「またいつかは戻るかも。…もし悔い改めれば、・・・まだ戻れる。」という甘えがどこかにあったように思う。 しかしお参りに行くということは、私にとっては、幼い頃から唯一絶対の神として信じていた「エホバ」を捨て去る、 ということで、、、 ~もう二度とあの世界には帰らないし帰れない~ ということを意味していた。 私の19年間を,まだ残る未練を絶ちきることだった。 ベットの中で天井をみつめながらよく思っていた。 "もし、私が「エホバの証人」から完全に離れるとしたら、私の19年間はいったいなんだったんだろう、 いろんな感情を埋め、いっぱい泣いてきたことはいったいなんだったんだろう"と。 「とりあえず今はすべてを忘れてしまいたい」と自分を忙しくさせることを選んだ。 そのためにサークルに入って、、、そしてすぐに起こったある冬の出来事だった。 アダムのことを思った。 神に反逆した最初の人間といわれるアダム。彼は神から食べてはならぬと禁じられていた「木の実」を食べた。 しかし、彼が「木の実」を食べたのは、自分自ら進んで行った積極的な選択ではなかった。 -妻エバに勧められたから- 神に尋ねられた時、アダムはそう答えた。 その妻、エバはこういった。 -蛇です。蛇がその実を食べるように私をそそのかしたのです。- しかし、何のせいにせよ禁じられていた「木の実」を食べたことは、神に反抗する行為だった。 そうして、彼らはエデンの園から追い出され、二度と戻ることはできなかった。 エデンの園~花々が咲き乱れ、小鳥たちは歌い、遠くに川のせせらぎが聞こえる、美しき楽園~ その園の真ん中には、一本の木があった。「禁断の実」のなる木が。 太陽の光を浴びてきらめく木の葉。木の葉から漏れる光に照らし出されて美しく輝くエバの横顔。 ふいに彼女が手を伸ばしてもっとも瑞々しい果実を一つもぎ取り、夫のアダムに渡した。 その一連の動作はあまりにも自然すぎて、流れるままに、 彼はそのまま何も意識することなく、それを自分の口に運んだのではないだろうか。 そして後々、自分のした事の重大性に気付き、後悔したのかもしれない。 しかし、いくら無意識のうちにしたかもしれない行為だったとはいえ、「木の実」を食べるということが何を意味するのか、 その事の重大性はきっと彼の心の奥深くに刻みこまれていたことだろう。 とはいっても、彼は、神に反逆してやろうと思って食べたわけではない。 それは、神に対する直接的な反抗を示す行為ではなかった。 「自分の創り主である神の教えよりも、妻のハナシを優先した」とエホバの証人はアダムのことを分析し非難する。 それを口にする瞬間、彼は何を思ったのだろうか?少しの迷いも生じなかったのであろうか? 彼は「禁断の実」を食べてしまったことによってエデンの園から追い出され、自身の「永遠の命」を失い、 その代償として神から独立し自ら物事を判断していく「自由」を得た。 苦渋に満ちた自由を。 彼はその残りの人生を後悔しつづけながら生きていったのだろうか。 苦労しながらも自ら作った作物が実り、それを口にした時、彼はその苦労の代償ぶんだけの幸せを感じなかったのだろうか? 失敗と試行錯誤から、「このようにしたらもっと多くのよい作物が実る」というその方法が分った時、 彼はその自らの発見に驚き、そして喜びを感じなかったのだろうか? 自分たちの子どもが生まれた時、その誕生を喜ばなかったのだろうか。 そして、こんな人生もいいかな~とは、一度も思わなかったのだろうか? あの時、「木の実を食べる」という選択をしてしまったがゆえに、決まってしまった自分の人生を、 自分がずっと歩んできた道を振りかえり、失ってきたものとその代わりに得たものにオモイを馳せ、 「…それでも、これでよかったのかもしれない。これでよかったのだと思う。きっと。」 とは思わなかったのだろうか? 「おれ、なんで食べてもーたんやろ。いや、食べたらアカンとは分っててんけどな。 なんかさー、おいしそうやったしさー。ほら、ない?魔がさしたってやつ?そう、そんなかんじ。 気付いたら食べててん。あー、なんで食べたんやろう。てゆーか、このままいくと、おれ悪者やんな~。 だっておれのせいで生まれてくる子みんな死ぬんやろ?病気とかはやるんやろ?あー、かわいそうなことしてもーたなー。 あー、もう一度あの時点にかえってやり直したいな~。あー、おれ最低。あー、なんとかあの時点にかえられへんかな~。あー。」 などと木の実を食べたことを後悔しつづけながら生きていたのだろうか。 それとも、 「あの時、エバの奴があの「実」をオレに勧めなければ、、、あの蛇がこのバカ女を騙す事さえしなければ、オレはこんな苦労しなかったのに、 今頃、楽園で何不自由ない幸せな生活を送っていたのに。このクソ女がっ。くっ、あの蛇のやろう!」 などと、楽園での幸せな過去を懐かしみ、今の生活を卑下して生きていたのだろうか? 自分が楽園を追い出されることになってしまった元凶ともいうべき、「蛇」、つまり蛇を遣わした「悪魔サタン」を彼は憎みつづけていたのだろうか? いや、 「…ボクが悪いんだ。神様のいうこと聞かなかったばかりに、ボクは全人類を不幸にさせてしまった…。 ボクは、そのうちみんなから恨まれるんだ。あ~、もうボクはダメだ。ダメ人間だ…。最初のダメ人間としてボクは歴史に名を刻むんだ…。 …恥ずかしいな…。…もう、いやだ。ボクは、もう、…はやく消えてしまいたい。 でも、ボクは…。逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ…。でも、ボクは、…ボクはいったい何のために神様に作られたのだろう…。 ボクはなぜ未だに生きてるんだろう…。ボクは、ボクは。…もう、もういいんだ、もう、なにもかも…あぁ…」 などと思っていたのだろうか? 彼は、自分の人生をどう受け入れていったのだろうか? アダムが生きたといわれる930年間、彼は何を考えてつづけていたのだろうか、 自分の人生について、そして続く子孫について… アダムのナマの声が聞きたいと思った。 聖書では、エホバの声にかき消されて、アダムの声は聞こえてこない。 彼にメッセジーがあるとすれば、彼は何を我々子孫に伝えたかったのだろうか。 そして自分には本当はこなかったかもしれない「死」を目前に、彼は何を思ったのだろうか。 ・・・死人に口はなくコタエなどない。 ただ、アダムはそれでも生きつづけた。そして天寿を全うして死んだ。 私はエホバよりもイエスよりもサタンよりも、なによりアダムに興味があるんです。 …と、昔、エホ証にゆったら、かなり怪訝な顔されました。。。 んでも、幼い頃はアダムにか~なりムカツいていました。 「オマエが木の実食わんかたっら、今みんなで楽園で幸せに暮らしてるのに。オマエのせいで、今みんな苦労してんねんで。 いっぱい苦しんでる人おんねんで。オマエわかってんの?ど~責任とってくれんねんな。」と、 聖書物語に描かれているアダムの顔にペンをぐりぐり突き刺しつつ叫んでました。 まー、今になって思えば、このハナシを実話とするかはどうかは別としても、 この物語にでてくる「アダム」って人は、やっぱとっても興味ひかれる主人公なんです。
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